本がある日日

本は好きだが読書が苦手な男の読書ブログ。時々映画もあるよ。

「仕事なんか生きがいにするな」(泉谷閑示)

f:id:ysense:20210509070530j:plain
この類の本はしばらく読むまいと思っていたが、図書館で手に取ってしまいついつい借りて読んでみた。
著者は精神科医である。

「生きがい」という言葉なんと抽象的な言葉なんだろう。
「生きがい」が無い、欲しいなどという言葉が流行ってからずいぶん久しいらしい。この本には書かれていないが、高度経済成長期の昭和30年代、40年代から生まれてきた言葉のようだ。

本書には以下のように書かれている。

人類は元来持つ生きていく上でのモチベーションは、他の動物と同様に空腹を補うために食糧を求め、危険があると逃げるという生き物の根本的な行動原理で生きてきました。

しかし、現代人はそれらの欠乏から 解放されているにもかかわらず、さらなる悩みを抱えている。
それは「生きる意味」を失い、「実存的な問い」を生んでいるのだった。

人間は、生きることに「意味」を感じられないと、生きていけなくなってしまうという特異な性質を持つ、唯一の動物です。

さて、こうした現実がある現代に悩める人はどのように生きて行けばいいのだろうか。

 要約すると、
意義や価値などを重要視する考えよりも意味のある人生を考えること。人生における意味というもの自体が形而上学的だが、意味を求めるから意味が存在するのである。
そして意味を感じるには「生きることを味わう」行為によって実現される。
「生きることを味わう」とは身体や心が喜ぶこと。しかし、それは役に立つとか、価値、計画、合理性などは抜きでを遊び、食、芸術などを味わうこと。

最後は「意味を考えない遊び」が大切。ということに帰結している。
個人的にはこの「意味のないこと」を行っているからこそ、虚無感がわき、意味が欲しくなるわけで、どうどう巡りなのではないかと思った。
途中までは良かったが結論がいまひとつ。著者が精神科医なので医学的、哲学的であり、当然ながら?宗教的ではない。
しかし「生きがい」というテーマ、なかなか面白いのでまた探っていきたいと思った。

・長くなりますが、以下に気になった箇所を記載します。

「何がしたいのかわからない」「自分がない」

人は「主体性」を奪われた状態のままで、自力で人生に「意味」を見出すことは原理的に難しいものです。まずは、人生の「意味」を求める前に、「意味」を感知できる主体、すなわち「自我」を復活させることから始めなければなりません。


 消費社会が生み出す「受動人間」

外見上いかに「能動」見える活動的な行為であっても、それが内面的空虚さを紛らわすための消費社会によって生み出された、外から注入された欲求で動いているもものは、その内実は「受動」でしかないのだ。

「受動」的であることになじんでしまった私たちは、自らの内面と静かに向き合う事が、いつの間にか すっかり苦手になってしまいました。

「実存的な問い」とはともすれば「形而上的」と揶揄されるような、雲をつかむような抽象論に陥ってしまう危険もあるのですが、やはり「働くこと」そのものについて考える作業は、私たちの「実存」を現世的で現実的な地平にしっかりと結びつける大切な意味があるのです。 

『それから』(夏目漱石著)の代助が反発していたのは、このように「働くこと」を「食う為」という他の目的の方便として捉える不純さだったのです。
裏返して言えば、代助は「働くこと」が、それ自体を目的とした純粋な行為であってほしかったのです。 

人間には、「労働」というものを軽蔑すべきものとして、なるべく避けようとする傾向と、逆に「労働」によって生命の喜びが得られる傾向とがあり、この両者を併せ持つややこしいところがあるのです。 

本来は人間的な手応えを得られるはずの「仕事」というものが、いつの間にやら「労働」というものに吸収合併させられ、すっかり変質してしまったということ。そして、労働こそが価値を生むものであるという「労働価値説」が社会経済の根本的価値観となってしまったこと。

「労働」から完全に離れてしまうことは、人間から活力と生命を奪い去ってしまうことになる。これは、生き物としての一つの真実です。しかし、だからといって、「労働」によってほとんどが占められるような生活もまた、決して人間的な生活とは呼べないでしょう。

人間らしい「世界」を取り戻すためには、儲かるとか役に立つとかいった「意義」や「価値」をひたすら追求する「資本主義のエートス」というものから各々が目覚めて、生き物としても「意味」が感じられるような生き方を模索すること。

生まれ育ってくる中で避け難く曇らされてしまい、「頭」でっかちで神経症的にならざるを得ないわれわれの感覚や認識というものを、「心」を中心に回復させることができた時、人は「本当の自分」になったという内的感覚を抱きます。
これは、生まれなおしたかのような新鮮さと喜びに満ちたものであり、「第二の誕生」とも呼ばれます。 

私たち現代人は「いつでも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、一種の「有意義病」にかかっているようなところがあります。 (中略)ひたすらゴロゴロして過ごした場合など、「何もしなかった」ことになって、後ろめたい気持ちにさいなまれたりします。何の「価値」も生み出さなかったのだから、「有意義」でなかったことになってしまうわけです。

「生きる意味はあるのか」という問いに対して、「あります」とか「ありません」と答えることは適切ではありません。
それは答えがないということではなく、この「問い」が前提にしている考えそのものに潜む誤りを初めに扱わなければならないからです。
 
それは、人生そのものにあらかじめ「意味」というものが有ったり無かったりすると想定している点です。
「意味」というものは、あらかじめ固定的に存在しているものではありません。「意味」とは、「意味を求める」という「志向性」を向けることによって初めて生ずる性質のものなのです。

「意味」は決してどこかで見つけてもらうことをじっと待っているような固定した性質のものではなく、「意味を求める」という自身の内面の働きそのものによって、初めて生み出されるものなのです。

 ヴィクトール・E・フランクルは著書「生きがいの喪失の悩み」で、「生きる意味」を求めるという「意味への意思」こそが本質的なベクトルであって、「意味」の副産物である「快楽」や、「意味」を得るための方便にすぎない「権力」を目標と考えることは本筋ではないとしています。

良き学歴を得て良き就職をし、良き社会的地位や収入を得て、結婚し子供を儲け、家を持ち、子供を良き学校に入れ、等々、これら、多くの人達が躍起になって追いかけている「価値」の諸々も、元来は、幸せに生きることを目指しての方便に過ぎない事柄だったはずなのですが、いつの間にか、それ自体が目的化してしまったものなのです。 

 人が生きる「意味」を感じられるのは、決して「価値」あることによってではなく、「心=身体」が様々なことを「味わい」、喜ぶことによって実現されるのです。

「本当の自分」というものは、どこか外に待ち受けていてくれるのものではなく、自分の内部を、「心=身体」を中心とした生き物として自然な在り方に戻すことによって達成されるのです。 

私たちの「心」が、「頭」の分離を離れて「愛」を持って物事に向かう時、私たちは、必ずや対象に「美」を持ち出し、また、そこに何がしかの「真理」があることを直観します。
私たちが生きることに「意味」感じる瞬間とは、このように「愛」の経験によってもたらされるものなのです。

効率主義を含む目的的な思考は、ビジネスのみならず現代人の思考全般にすっかり浸透していて、私たちはどんな小さな選択であっても「それは何の役に立つのか?」「それは損なのか得なのか?」(中略)など考える癖がついてしまいました。
そして、「結局」「所詮」「面倒くさい」といった言葉が乱発されるようになり、「どうせ同じ結果が得られるのなら、余計なことはしないのが賢明だ」と考えるようになってしまったのです。
ところがそもそも「遊び」というものは「無駄」の上にこそ成り立つのであって、その「結果」はあくまで二次的に過ぎないもので、「プロセス」のところにこそ面白味があるのです。

 

 ちなみにアマゾンの評価は賛否あって面白い。