本がある日日

本は好きだが読書が苦手な男の読書ブログ。時々映画もあるよ。

なぜこんなに生きにくいのか(南直哉)

前回南直哉(みなみじきさい)氏の本を読んで鋭い切り口に感銘を受けた。
余韻が残っていたところ、図書館で出会ったこの本を借りて読んでみた。

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もとは平成20年に出版。平成23年に文庫化されたものだ。
見るからにネガティブなタイトルだが、内容は素晴らしかった。

基本的な構成は前回の「心がラクになる生き方」に似ていて、著者が相談を受けたことをベースに回答解説をされている。

以下に特に留めておきたい箇所を記載しました。

私たちは人生を「自己決定」で始めたわけではありません。自己という存在それ自体には、もともと根拠がない。だからつらいわけで、それで空いている穴を「意味」とか「価値」でふさごうとするのです。

「自分探し」で悩んでいる人の多くは、自己イメージと「本当の自分」は一致すべきものだと思っているようです。しかし、私は、ズレているのが当たり前で、そのズレこそが、自分の存在領域ではないかと思います。
「本当の自分」というのは、「課せられた自分」に対する幻想でしかありません。矛盾に満ちていますが、本当の自己と名付けて意味があるのは、唯一、このズレ、自己に対する違和感だと思います。それこそ、頼りにも当てにもならないものです。

「自分のやりたいことがわからない」、あるいは「自分らしく生きたい」などと言う人がいます。しかし、そもそもそう言っている本人にも「自分」がわからないのだから“らしく”もへったくれもないでしょう。(中略)
ここは一つ、発想を変えてはどうかと思うのです。まず、「本当の自分」などどうでもいいと思うこと。「自分はわからなくて当たり前だ」と決めてしまったほうが、ずっと楽に生きられるはずです。
それより、いったい自分は何を大切にして生きたいのか、誰がいちばん大切な人なのかを考えるのです。

大多数の人間が必ずしも自分の好きなことを仕事にできないのだとしたら、仕事である以上考えなければいけないのは、第一に、いったい自分は何をしたら人の役にたつのか。そう考えた方が、結果的に自分に合った仕事にたどり着くのではないかと思います。

普通は出家までする必要はないでしょうが、人は誰でも、あるところで、自分は生きるのだ、と決めるべきだと思います。自らに覚悟を課すと、実際生きるのが楽になるのです。
これは苦しい決断ですが、とても大事なことだと思います。なぜなら、この決断が生きる意味を作るからです。もっと言えば、生きる意味とか生きる価値というのは、「自殺しないと決めること」「生きる覚悟を決めること」から始まるのです。

業の核心的な意味というのは、自分がなぜこのような自分であるかわからないということです。にもかかわらず、いまこのようにある。そう決めているものは何か。
いわば、業とは「生きる条件として背負わされたもの」なのです。人間は、自分の責任ではないのに背負わざるを得ないことがたくさんあります。しかし、たとえどんなに重くて決定的なものであっても、それが条件である以上、条件に対して、どういう態度をとるかということは、人間に最後に残されている自由なのです。

永平寺第78世貫首故宮崎奕保禅師は、「愛」ではなく、上に「敬」をつけて「敬愛」と言いなさいとおっしゃいました。私は「愛」の部分もとってしまって「敬う」「敬意」と言っていますが、要は、これが人間関係の根本においてもっとも大事なことだと思います。
いま、社会全体が、人を敬うシステムにはなっていません。そこに大きな問題があります。(中略)だからこそ、敬い敬われる関係が一層大切となるでしょう。
人は関係の中でしか生きれれない以上、自分だけでなにがしかの価値があると思うのは幻想です。自分が価値ある人間になるには、「他者」にそう思ってもらうしかありません。

人間は「生」の強度と深さがないと、生きているという実感を持てません。言い換えれば、生の強度さえあれば、生きていけるのです。要は「ああ、生きてるのも悪くないな」「まあいろいろあるが人生も悪くないな」という感覚がもてるかどうか。
それでは、生の強度はどこから来るのか。私たちが生まれてきたことは理屈では説明できない以上、理屈ではカタがつかないのは明らかです。とすると結局のところ、他者との関係の強度によってできるものではないでしょうか。

われわれの存在自体が「病」だとすれば、仏教とて、実は根治する手だてにはなりません。問題は、病んでいても生きていけるようにできるかどうか、です。これは「癒し」とは発想が根本から違います。
(中略)通常の解決法としては「苦しさ」を消したり緩和したりすることを考えます。それが「癒し」の発想です。ところが、仏教は「自己」のほうをターゲットにする。「自己」を消しにかかるのですから尋常な話ではありません。
「自己を消す」とは、自殺することとは違います。自殺すれば苦しさがなくなるのかどうかわからない以上、自殺はしょせん愚かな選択です。
とすれば、この無理難題にとことん悩むしかありません。生きる知恵というのは、悩むことからしか出てきません。それも手探りで探していくしかないのです。
(中略)生きる知恵、教養を身につけるには、悩むこと手間をかけること、これらの両方がいるのです。しかし、悩まない人間などというのはおそらくいないでしょう。そうであるとするなら、教養を身につける術はあるはずです。悩むということをどう扱うかの問題であって、これこそ先人の経験や知恵から学べばいいのです。本当に悩んだ人間というのは、そこにたどり着くだろうと思います。

ここに記載したのは個人的に留めておきたいと思ったもので本書の内容は様々なテーマがある。生き方、個性、孤独、あの世、霊現象、自分探し、親子関係、人間関係、差別、など。

シンプルなタイトルながら相変わらず内容は鋭い。
「自分はたまたま生まれてきた存在」「存在に根拠は無い」「われわれの存在自体が病」など、まずもって人間をネガティブなポジションから始めるという姿勢はとても潔く、ダイナミックで心に響く。
これらで救われる人は少なからずいるだろう。
文章自体は読みやすいが深いものがあり、読み返す度に気づきはあるだろう。
最後に書かれている「人生苦しいことは多いけれど、なんとかしてみよう」と僕個人は少なからず思えた。大きな収穫を得た一冊だった。

巻末に評論家の宮崎哲弥氏の解説が掲載されているが、宮崎氏の言うように、仏教には「論理学」はあるが「倫理学」は無い。この考察もめっぽう鋭く、仏教って凄いのではないかと改めて感じざるをえない。


・南直哉著
平成23年10月発行
新潮文庫