神様のカルテ(夏川草介)
2010年の本屋大賞第2位作品。
タイトルは知っていたが、図書館でなんとなく手に取ってみた。著者が夏目漱石を敬愛しているということもあり興味もあった。
忙しい地方医療の現場が舞台だが、家族や友人、患者さんなどの関係がとても優しく温かい空気が漂う。
しかし、人生の選択のことや生と死を考えさせられることなど大切なメッセージが込められている。
(一部ネタバレがあります)
おそらく主人公の栗原一止(くりはらいちと)と著者自身がモチーフになっているのではないかと思う。
冒頭にこのような一節がある。
ちなみに、私の話ぶりがいささか古風であることはご容赦願いたい。これは敬愛する漱石先生の影響である。学童期から『草枕』を愛読し、全文ことごとく暗誦するほど反読していると、こういうことになる。
しかし、古風な単語が出てくるとはいえ、文章は読みやすい。
全編を通して地方医療に残るか、大学病院で最新医療を学ぶかの葛藤が描かれている。また、友人の自殺未遂、人間の延命治療の是非などが描かれている。
ところどころ気になる文章があったので記しておきたい。
今の民間病院に残るか大学病院に行くべきかという問題に対して病院の同僚は、
「興味がないわけじゃないだろう。お前は目の前の患者たちを置いていくのがいやなだけだ。(中略)だがもっと遠くを見ろ、一止。そんな感傷に流されて大事な人生を棒に振るのか。もっと高いところを見ろ」
主人公栗原一止が住むアパート御嶽荘には変わった人たちが集まっている。
御嶽荘は不思議な空間である。
まるで世の中に適合しきれなくなった人々が、さまよい歩いた先に見つけた駆け込み寺のような様相が確かにある。(中略)彼らは再び世の中という大海原に向けて船を出す。難破を怖れて孤島に閉じこもる人々ではない。生きにくい世の中に自分の居場所を見つけるために何度でも旅立つ人々だ。そういう不器用な人々を奇人と噂するのは、生きることの難しさを実感したことのない凡愚の妄言である。
余命一ヶ月とされた患者さんの死を看取ったあと、延命治療することが正しいのかどうか栗原は思った。
心臓が動いている期間が数日伸びることはあるかもしれない、だが、それが本当に“生きる”ということなのか?
孤独な病室で、機会まみれで呼吸を続けるということは悲惨である。今の超高度な医療レベルの世界では容易にそれが起こりうるのである。
命の意味を考えもせず、ただ感情的に「全ての治療を」と叫ぶのはエゴである。そう叫ぶ心に同情の余地はある。しかしエゴなのである。患者本人の意思など存在せず、ただ、家族や医療者たちの勝手がエゴが存在する。誰もがこのエゴを持っている。
主人公の栗原が子供の頃に読んだ短編に、仏師が仁王を彫っているのを見ていた若者が「あれは木に仁王を彫りこむんじゃない。最初から木の中に仁王が埋まっているのを彫り出すだけだから、容易なものなのだ」と言う話があった。
栗原の仕事も同じようなものだと。
点滴やら抗生剤やらを用いて、絶える命を引き延ばしているなどと考えては傲慢だ。もとより寿命なるものは人知の及ぶところではない。最初から定めが決まっている。土に埋もれた定められた命を、掘り起こし光をあて、よりよい最期の時を作り出していく。医師とはそういう存在ではないか。
そして、本編の最後に主人公栗原一止の人生の選択の場面で
思えば人生なるものは、特別な技術やら才能やらをもって魔法のように作り出すものではない。人が生まれおちたその足下の土くれの下に、最初から埋もれているものではなかろうか。
医師ならではの死に対する考え、誰もが通過する人生の分岐点での考えなど、今一度自分自身考えさせられる内容だった。
読む前はこんなことが書かれているとは思いもしなかったが味わい深い内容で面白かった。さすがに人気作だけある。
それにしても、主人公の細君(奥様)のハルさんが可愛い過ぎる。が嫌味ではないところが上手い。