本がある日日

本は好きだが読書が苦手な男の読書ブログ。時々映画もあるよ。

「維摩経」をできるだけシンプルにまとめました

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日本の仏教のお経といえば般若心経や法華経などが有名ですが、この「維摩経」(ゆいまきょう)は今一つ人気はありません。

しかし、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子が著した「三経義疏」の中の一つでもある立派な経典なのです。

内容は戯曲のようなストーリー仕立てになっているのですが、内容を理解するのはなかなか難しいのです。(個人的に)
ただ、前半の釈迦の弟子を在家の維摩がやりこめるという件は「なんだこの話は?」と、誰でも興味をそそるのではないでしょうか。普通は釈迦の弟子のありがたいお話を聞くもんですからね。

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マイナーなお経とはいえ、数多くの翻訳書があります。
もともとのサンスクリット語の経典を漢語訳したものがいくつかあるのですが、その中でも鳩摩羅什訳のものが普通だそうで、それを日本語解説したもののうち、鎌田茂雄著の「維摩経講和」をまず初めに読みました。

維摩経講話 (講談社学術文庫)

維摩経講話 (講談社学術文庫)

 

 その後、もっと知りたいと思い2冊ほど読みました。

さらにその後、現存していないといわれていたサンスクリット語の原点が20世紀末に発見され、それを詳細に日本語訳された本「サンスクリット版全訳 維摩経 現代語訳」(植木雅俊著)今年の夏に発売されたと知りこちらも読みました。

サンスクリット版全訳 維摩経 現代語訳 (角川ソフィア文庫)

サンスクリット版全訳 維摩経 現代語訳 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/07/24
  • メディア: 文庫
 

 複数の翻訳書を読むとそれぞれに解釈が違ったり、どこを重要視していいるかがわかります。

数冊読んだうち、はじめの「維摩経講和」は読みやすく深いところまで書いていて面白かったですね。
というわけで維摩経講和」(鎌田茂雄)をこの記事のベースにしています。

 

どんな話?

主人公である維摩居士(ゆいまこじ)は在家の仏教信者で、専門家の僧侶ではありません。
ある日、維摩は病にかかっていました。釈迦は弟子たちに維摩の見舞いに行くように指示します。ところがどの弟子も維摩の見舞いに行くことを拒みます。
なぜなら、過去にどの弟子たちも、座禅や説教、病気、道場、法施などの様々なテーマで維摩の質問に答えられなくなり、やりこめられた経験から見舞いに行くことを嫌がったのです。

それならばと、釈迦は次に菩薩たちに見舞いに行くように言います。
その中でも文殊師利(文殊菩薩)と維摩は鋭い熾烈な問答が交わされます。
また、天女があわられ、そこにいた舎利弗と問答する場面や、維摩経のテーマである不二法門(ふにほうもん)について、菩薩たちは様々な答えを出しますが、維摩の回答は、なんと、何も語らぬという沈黙のシーンは名場面となります。
維摩の一黙、雷の如し)

維摩は神通力で仏土より遠くにある衆香国という国の香積という仏を呼び、この娑婆世界を見学させ、この世界の衆生の教化がいかに難しいかを語ります。

最後に釈迦が登場し、尽無尽の説法や本当の供養の説法などを行い、この維摩経広宣流布するように命じるのです。

できるだけ簡略化するとこんな感じでしょうか。
次にもう少し詳しく数々の教えの中から主なものをまとめてみます。

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数々の維摩経の教え

・心の持ち方、自分次第でこの世は清浄な世界になる。そう見えないのは自分がそう見ようとしていないからか、もしくは見る目が無いかである。

・身体は幻想である。だから病気も幻想であるが、その病気を治すためにはまず仏教の教えを求めようとする気持ちをおこすことだ。

・迷いと悟りは、相対する別のように思うかもしれないが、不二である。
生と死も不二で、不生であり不生滅であるから無常である。

・善と悪、有と無、汚濁と清浄、煩悩と菩提など対立するものの一方だけに執着するのではなく、二つのものを不二と思い、行うことが重要である。

・仏を求めても、仏に執着して求めてはならない。

・法とは寂滅、無為、無処と、無相なるものを対象化して求めること自体が誤りである。

・人間の存在は空無である。しかし、悲観したり、否定するのではなく、虚空のような清浄な世界に生きる事。
無常なもの、無相なものを実相とみたり、有相と見るから迷いや悩みが起こる。本来何もない無住の中でありもしない妄想を存続していると考えているから苦しめられる。

・煩悩を行うように見えても、心は常に清浄であること。
煩悩を行っても、五欲汚泥から離れていなければ真の悟りは無い。生死も無相であり空であるから捉われてはならない。

・対立する二つのものが一体である「不二」は言葉を並び立てて説明はできるが、本来は言葉では説明、表現できない。

・体験を言語化するには限界があるが、言葉が無意味であるかといえばそうではない。

・この世界の人間は剛強で、頑固で教えを簡単に受け容れない。だからブッダは荒れ狂う馬や象を屈服させるように、剛強な言葉で、悪しき報いなどを説き聞かせる。

・没する事も生ずることも、すべて虚妄の存在が没したり、生じたりするのであって、真実の存在は不生不滅である。

・真の供養とは、物を供養するのではなくて、法の供養である。仏塔を建てたりする供養よりは、空、無相、不二の真理を身に体得することが最高の供養である。

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維摩経には、不可思議とか、未曾有とかというキーワードが出てきます。
煩悩をただ否定しなかったり、非道を行ずると言ったり、山で一人座禅することを否定したり、何やら普通に語られる仏教のイメージとは違うことを説いているところに興味が湧きます。

菩薩と維摩の問答(不二法門品)の中であらゆる対立する概念がでてきます。仏と衆生、迷いと悟り、汚れと清浄、動と念、善と悪、尽と不尽、明と無明、尽と不尽などなど。こういった対立するものをどう捉えて、対峙していくかを説いたお話と言ってもいいでしょう。

このように維摩経の最大のテーマは「不二法門」ですが、何が言いたいか一言でいうと「無著」(むじゃく)(執着がないこと)ということだと思います。
あらゆるものごとに対して、否定したり、排除するのではなく、相対するものは本来一つであるということ、とにかく執着しないということだと思うのです。そして、その先には束縛されない自由な境地があるともいえるのです。

一人一人の個人で考えた場合、たとえ煩悩の真只中に生きている衆生であっても、その中には清らかな仏になる可能性を持っているということにもなります。
諦めさせない、可能性を見出す意味でも維摩経の存在は大きなものなのではないでしょうか。

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おわりに


この維摩経、何度も読み返したり、メモしたりしていたので自分の頭に入っているだろうと思っていましたが、いざまとめようとなるとなんて自分が理解していないんだ!なんて覚えていないんだ!という事がわかりました。(汗)
このようにまとめるのは大変でしたがよく整理ができると思いました。
そして実生活にいかに活かしていくかが問題なのですが・・・

あと、こんなに面白いのになぜあまり人気が無いのだろうかと思います。出家信者、僧侶ではなく、在家信者が主人公だから親近感があって面白いんだけどなぁ・・
数年前にNHKの番組にもなっていましたが。
わかりやすそうでわかりづらい。そんな微妙な位置にあるのかもしれません。

この記事だけでは到底維摩経の魅力は伝えられませんが、興味のある方は色んな本がありますので読んでみてはいかがでしょうか。

ちなみに奈良の興福寺維摩居士の座像があるそうです。