本がある日日

本は好きだが読書が苦手な男の読書ブログ。時々映画もあるよ。

禅僧が教える心がラクになる生き方(南直哉)

永平寺で修行の後、現在は青森県の恐山の院代(副住職)という経歴をお持ちの禅僧、南直哉(みなみじきさい)氏が書かれた本。

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古本屋で手に取ってみたが、タイトルからしてライトな仏教書と思って見たら予想外に書かれていることが鋭いというか、視点がなにか違うと感じたので購入してみた。

仏教、僧侶の書かれた本といえどもその方のルーツや宗派により違いはあるが、著者は幼いころから自分の中に問題(疑問?)を抱え、その解決のために出家し仏道に進む。

著者は同じような問題を抱えている人がいれば、話たいという人がいれば可能な限り話を聞くというスタンスであり、この本は過去の対話をベースに問題解決のヒントを与えてくれるような本である。

著者はこう書いています。

私は、今まで会った方たちにも、その相談事へ「答え」を出してきたわけではありません、話す中で、ご自身の問題が鏡のように映し出され、明らかになればいい。そう思って話をしてきたまでです。
この本を読み進めるうちに、あなたが自分の置かれている状況をまったく別の視点から捉えられるようになれば、それで十分だと思っています。
なぜかと言えば、自分を苦しめたり、悩ませたりしているものの「正体」が明らかになれば、そこから見えてくる道があるはずなのです。
進むべき道がみえてくれば、人はどんな苦境からでも一歩踏み出していくことができます。


以下に記録、記憶しておきたいことをまとめてみた。

仏教は、人生は辛く、苦しく、悲しいもの、せつないものだと断じています。たとえそうでも、すべてを抱えて死ぬまで生きる。その勇気こそが尊いのです。
「いろいろあるけど、よかったな」と思える一生を送る。
「生きるのも案外悪くなかった」と言って、この世を去る。
仏教は生きるためのテクニックです。
いや正確に言えば、死を目指して生きるためのテクニックです。

人はこの世に「たまたま」生まれてきた存在にすぎません。
そんな自分と折り合いをつけ、苦しさに「立ち向かう」のではなく、苦しい状況を調整し、やり過ごして生きて行く。

諸行無常」とは「この世のすべての物事は変化していく」ことだと解釈されます。しかし、私が感じ取った意味は違います。
生きること自体に意味などない。
自分の存在には確かな根拠がない。
人の存在には確固たる根拠などない。
2500年前に釈迦が残したこの言葉は、そう教えてくれました。生きることに意味がないとは、救いのない言葉だと思うかもしれません。
しかし、そうわかれば、「意味のある人生」や「有意義な人生」を送らなければと、肩肘張って頑張らなくてもよくなります。

どうしても人生の意味を考えてしまう。
それらしい人生訓を語られても、腑に落ちない。そんな人もいます。
そんな人が、世の中には今の自分の視点だけではない別の見方があると気づけば、今まで見ていた景色がガラッと変わります。

一切皆苦」この世はすべて「苦」である。釈迦はそう見抜きました。
自分の生きづらさを無視できない・・・そんな人たちは、仏教に触れて、自分の存在はしょせん「たまたま生きてきた借り物」にすぎないとわかると、「やっぱりそうか」と納得するのです。

「本当の自分」「ありのままの自分になる」とは一見、なんのとらわれもなく心のままに生きられる、ひとつの理想像のように思えるかもしれません。
結局は、「本当の自分」「ありのままの自分」になるために、記憶と「他人の承認」の中をさまよいながら、「自分はこれでいいのだろうか」と葛藤しているだけになるでしょう。
もともと人は、「受け身」の存在です。
駆り立てられる積極的に生きるのは無理なのです。
「人生を棒に振ってもいい」くらいの気持ちでいればラクに生きられます。

生きるか死ぬか以外は大したことではない。
深刻な問題ほど冷静になって、自分で対処できるのか、誰かの助けが必要なのか、やり過ごせばいいのか見極めましょう。
それが問題を「取り扱い可能」にすることです。

仏教ほど救いのないヤバい宗教はありません。
「自分が自分であることにはしょせん根拠がない」と言っているのですから。
そんな根拠のない自分を、自分で変えられると考えるのは勘違いです。
人生のそれ自体に意味などないのだから、わからなくていいと気付く。そして、穴の空いた自分と折り合いをつけながら、持ちこたえていく術を身につける。
仏教的に言えば、選択肢はそれしかありません。
世の中には、今の自分の視点だけではない別の見方があると気付くと、今までの見ていた景色がガラッと変わるような感覚が生まれてます。

自分が何に困っていて、何が欲しいのか。
自分がどんな状況にいて、どう変えたいのか。
それを見極めるためには、置かれた状況を冷静に見て、具体的に考えて行く根気が必要です。
考える手間を省いて、出来合いのノウハウを当てはめようとしても、うまくいくはずがありません。即効性を期待して、インスタントにやろうとすればするほど失敗します。
問題や感情に降りまわされてストレスを感じるのか。
手間暇をかけることに、ストレスを感じるのか。
生きていくうえで、どちらを選ぶのか。

本当に偉いと思うのは、夢や希望を叶えて生きる人ではありません。夢に破れてもいきていく人です。
「この目標を叶えたい」という願いが叶わなくても、しぶとく生きていく人です。

「せっかく生きてきたのだから、意味のある人生を送りたい」という人がいますが、「せっかく」ではなく、この世に「たまたま」生まれてきただけなのです。
生きがい探しをしたくなるのは、現状に不満や不安があるときです。
問題を直視して、不具合を調整すれば、生きがいを探す必要はないのです。

死に際して、「まあ、そこそこの人生だったな」「いいことも悪いこともあったが、とりあえず生きてきたな」と思えれば十分だと思います。
そんな死を迎えるためには、「大切な自分」から降りて他人に自分を開くこと。損得勘定から離れて、人の縁を結んでいくことです。
自分のためではなく「人のため」と考える。やりたいことではなく「やるべきこと」をする。
そこを目指せば、「生きていてよかったな」と思える日々が重なっていくはずです。

人が感情に揺れたり乱れたりするのは当然です。
大事なのは、その波に巻き込まれたり、流されたりしないようにすることです。つまり、感情が「心」という器からこぼれないようにしなければいいのです。

怒りが湧くのは「自分が正しい」と信じているからです。
怒りに翻弄されたくなかったら、自分が正しいと信じていることが、本当にそうなのか、冷静に考えてみてください。

その他、ここにはあまり書いていないが人間関係や死についても書かれている。


読み終えて率直感想は刺激的な本だったということ。
やわらかいイメージをもつ本だが、実は太い芯のあるような精神が感じ取れる本だ。

著者は生きる意味を極端に潔く「無意味」と論じていて、僕自身も新しい気づきや発見があり救われる部分があった。
しかし、読みながら果たしてそれが本当なのかと疑問に思うところもある。
輪廻のことも、浄土のことも、霊のこともなにもかも否定されているようで、そのまま受け入れられないような部分もあったがこれもひとつの仏教観であり、これらの思想を解体しつつ自分の糧になるのではないかと思う。